岩滝の歴史 −64−

安土桃山時代@ 

−信長と秀吉の政治−


ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えたのは天文12年(1543)のことである。
天文18年(1549)ポルトガル人ザビエルが鹿児島に到着した。
領主島津貴久(たかひさ)からキリスト教の布教を許された。
キリスト教は、諸大名の許可を得、保護を受けて各地に広がり、洋風の教会堂が処々に建てられた。
織田信長は天正4年(1576)正月の半ば頃から琵琶湖にのぞむ安土に大規模な築城工事をはじめた。
信長は関所を廃し道路を広くし、川口には大きな橋をかけた。
信長が安土の城を築いたのは、彼の威武を天下に示すものであり、また天下布武の根拠地とすることが目的であった。道路をよくしたのは、彼のそむく者ある時、討伐に際して大軍の行動を容易にするためであった。
中世の城は険岨な山岳を利用した砦が多く、城主の日常の生活は平地にある館で営まれていたが、この頃から平地に、堀をめぐらし、そして壮大な天守閣をもつ城にかわり、城の周囲は、武家屋敷や商人の住む市街地で囲ませた。
信長は、領主たちの持っている土地の面積をくわしく書いて差出すように命じた。申告書に不審があれば、百姓にじかに問いただし、少しのごまかしがあっても全領地を没収するという、すなわち「検地」を行なった。
豊臣秀吉は、織田信長より更に大がかりな土地の調査「検地」を行なった。
秀吉はまた天正19年3月(1591)全国に「人掃い」という戸口調査を実施した。
これによって作られた「家別人別改帳」と「検地帳」は農民を土地に結びつけるための基礎台帳となると共に「夫役(ふやく)」を徴するための労働力の調査帳ともなった。
秀吉は天正16年(1588)広範囲の「刀狩」の命令を出した。
刀狩は、農民が武器を持つことを禁じ、これを取上げるということで、信長がすでに行なっていたが、秀吉は全国平定を機に、兵農分離から更に士農工商の封建的身分制を確立する方針を立てた。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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