丹後ちりめん −2−

丹後ちりめんの歴史(2)


当時は、与謝郡は軽目のもの、竹野郡は中目のもの、中郡では重目のものが生産された。
此の時代は、竹野郡の大部分は久美浜代官所に、中郡の主要部は峰山藩に、与謝郡は宮津藩に支配されていたので、取締の法令も三郡で異っていたが、原糸の購入、職工の雇傭、販売の方法等に関しては、三郡の同業者相提携して一致の方針をとっていたものゝようである。
文化十二年(一八一五)初めて三領分それぞれに文書を以て規定を設け、文政三年(一八二〇)三領分同業者が連合して中郡口大野村(大宮町)に大会所を開設し、毎年の行事を審議し協定した。
天保六年(一八三五)三郡立合機数帳を調整し、弘化四年(一八四七)又規約書を制定し、安政四年(一八五七)更に取為替証文を作った。こうして取締を強化する一面、団結を固めていったことが察せられる。慶応三年(一八六七)中郡口大野村(大宮町)の蒲田善右衛門が、綿縮緬(絹綿交織)を創製して好評を博し、その後、生産額が年々増加していった。

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