丹後ちりめん −62−

岩滝各区の機業 男山の機業(2)


廃藩後、世屋村松尾の人、坂野市治郎は、若い時男山に出て糸井良太郎の養子となった。農業の労多くして得る所少く、之に反し機業の労少くして利潤多きに着目し、生糸縮緬の問屋であった丸仙商店に乞い、家内工業として発足した。明治30年前後で、之が男山に於ける縮緬機業の元祖であった。爾来惨怛たる苦心を重ね、明治末年には足踏織機を購入した。次で大正に入って第一次世界大戦の好況に乗じ、動力織機時代に入ったが、卒先之に移ったのが岩滝の上柳利兵衛と前記の糸井市治郎であり、先達としてのこの2人の苦心は後年まで語り草となった。市治郎は始め居宅内に織機を据付け、工場兼用であったが、居宅つづきに工場を新築し、更に道を隔てて前隣に第2工場を増築した。発展に発展を重ね、昭和の中期に入っては、力織機23台を数えるに至った。 市治郎は一代の成功者として隠居兼用の邸宅続きの新座敷に病むこと1年、76才で永眠したが、2代太郎吉に至り更に堅実に経営し、家運は益々安泰となった。
時代の進展に目覚めた男山の人々の中にも漸次機業への転向者が現われ相前後して工場を建築する者が出た。太平洋戦争による企業整備令が施行された際男山8軒の機業家中3軒が残ることとなった。昭和30年頃になると農家のなかにも機業を兼業する者が出始め、同業者による組合を結成することとなり、昭和33年男山機業組合をつくり初代組合長に三田明が選ばれた。
現在は、組合員は88名を数え機台数も280台に及んでいる。

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