丹後ちりめん −63−

岩滝各区の機業 岩滝の機業(1)
丹後機業界における岩滝の地位


岩滝の機業は、峰山藩森田治郎兵衛、宮津藩の加悦手米屋小右衛門(杉本氏)三河内の木綿屋六兵衛等が、京都西陣から織物技術を伝えるに及び享保年間に始められた。
旧藩時代から明治の末までは1戸1機乃至2機、多くても5機を出ることのない程の小規模のもので、家内工業、手先工業の域を出なかった。
岩滝の山家屋一族(上川橋から松の家大倉まで、道路の左右に一廓を構え、一族40軒)米品(糸井品蔵)、丸糸(糸井勘助)等が、岩滝の機業家に資本を貸し、岩滝で織られた縮緬を集荷して京都の白地屋に送った。この連絡に当ったのが、いわゆる京都定便(京荷持)で、岩滝だけで20人位の者が年中、岩滝、京都間を往復していた。
農家に地主、小作、自作のある如く、機業関係に於ても問屋(資本家)歩機屋、掛機屋、自機屋等があった。中郡、竹野郡の機業家は殆んど岩滝の歩機屋であった。従って、原料の生糸も製品のちりめんも岩滝が集散地であった。
丹後ちりめんの発祥地は岩滝であると伝えられた程、岩滝の資本家は実権を握っていた。これには大船を多数所持し、北陸、奥州から原料を仕入れ、之れを丹後全体におろし、製品を集めて京都の白地屋と連絡、全国に売りだした傑出した商人山家屋利七等の功績によることを見落とすことはできない。

前へ 目次 次へ