丹後ちりめん −64−

岩滝各区の機業 岩滝の機業(2)
女工の生活


女工が白飯をたべさせてもらえたのは、盆、正月、祭等で、平素は麦めし、芋めし、大根めし、菜めし、アラメ(海草)飯であった。肉や、魚は殆んど食べることはなく、味噌汁、芋、大根の煮たのはよい方で、朝はつけ物である。
朝1時間、夜は2時間、時計の無かった時代は長線香をともして、ともし終った時、太鼓を叩いて村中を廻った。右廻り、左廻りと交互に廻った。廻る方向によって今晩は早晩だといって、10分か20分早く終ることを大変喜んだ。
太鼓屋は今の床正の祖父清助が永く勤めていたが、その次は小室久松であった。之が最後で各戸、時計によることになった。現在の四辻(町役場近くの十字路)のサイレンは此の太鼓に代るもので、与謝郡内では一番早く取付けられた。
休日は、盆、正月の外五節句、田植の中(ちゅう)、七夕、盆の踊りのはずむ17日、何か事件があると、臨時に太鼓を叩いて廻り仕事を休む慣例であった。
大体仕事を休むのは月平均1回位のもので、旧6月、7月だけは、ようまといって、2時間の夜業をやめることになっていた。
大正12年加悦町字加悦奥の人、細井和喜蔵は機屋の女工員の余りにもみじめな日々の生活をみて深く悲しみ、この実情を「女工哀史」と称した単行本になし世の人に訴え大きな反響を呼んだ。当時の女工員の哀愁に満ちた姿が綴られており多くの人々の胸をうったのである。
しかし、女工終始一貫嫁入まで忠実に勤めると、雇用主は女工のために箪笥、長持等嫁入の荷物をつくってやったり、特に親代りになって嫁入りさせることも少くなかった。

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