丹後ちりめん −67−

岩滝各区の機業 岩滝の機業(5)
大正時代の岩滝の機業(1)


大正6年、7年に発動機による織機が上利工場、前常工場に施設され、昭和初年に西山工場へ8千円のドイツ製刺繍機がはいり、ドイツ人技師が来て指導していた。
この頃には岩滝の織物の種類も錦紗ちりめん、お召、一越、パリス、ニューネス、ロチンネス、綿ちりめん、スフ入、人絹、刺繍、コツトウもの等多種多様となった。
大正の初め欧洲に戦乱が勃発して、第一次世界大戦に発展し、日本も連合国に味方して参戦したが、連合諸国からは軍需品の注文が殺到し、日本は軍需景気にうるおうことになった。
丹後の機業も此の波に乗り、需景気に応じ切れぬ有様であった。
そこで服部郡技手指導の下に従来の家内工業を工場工業に、手先工業を機械工業に漸次転換することとなり、大正3年(1914)には、加悦町尾藤啓助工場、西原雄助工場が、いずれも四馬力の石油発動機を据え付け範を示したので、岩滝からは上柳利兵衛、前田常蔵、小室万吉等つぎつぎに視察に行き、上柳は早速四馬力の発動機と力織機、整経機を購入し操作した。これは他の機業家を刺激し、弓木の木崎清三は、海老根技師を迎え、十馬力の発動機を据え撚糸専門の当時としては大工場を建設した。
兎角する内、関西電力会社が設立され、電力が自由に供給されることになり、機業家の製産額は2倍、3倍になった。800円の生糸が2,800円という未曽有の高値となり、これに伴って製品の価格も破竹の勢いで上昇した。

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