丹後ちりめん −79−

岩滝各区の機業 石田の機業(2)


手織機時代は、当区においてその労働時間の終りの合図は太鼓で機屋に知らせた。区には「太鼓打ち」という人を常時雇っていた。そしてその人が毎日、雨が降っても、雪の日でも小さな太鼓を提げ、提灯を持ち、石田の町内を端から端まで夜中に太鼓を打って時間を知らせて廻った。
手織時代には、織物業としての組合はなかった。友人グループ等で相談した位であった。然し機屋の数が増加するに及び、石田機屋組合ができた。そして、大正8年頃、丹後織物同業組合が、与謝郡、中郡、竹野郡にでき、それがまた連合体として、丹後織物三郡同業組合連合会ができた。当区の機屋もその組合に入った。その当時の代議員は山添定吉(第1代)であった。
手織機から足踏織機と変ってきたが、その織機は大正2年頃、角尾重助(第1代)によって始めて据付けられた。
彼は明治39年、18才で百姓機屋をつぎ、熱心に機業の進展のため研究をつづけていたが、恰も大正2年丹後織物同業組合の主催で、縮緬織物の先進地である北陸地方の織物状況を視察することになった。
彼は、この時25才、視察員中の最年少者であったが進んで視察団に加わり(視察団員は岩滝「広野憲治、角尾重助」。石川「吉田清」。山田「竹林」、三河内「安田角太郎」。加悦「西原雄助」)熱心に視察して帰った。その先方の進歩していることに深く感銘し、遂に当町はもとより、加悦谷、中郡、竹野郡まで出張して連日先方の進歩せる状況と、織物設備等の改良の最も必要であることを強く叫びつつ宣伝して廻った。そして自ら足踏織機1台を購入した。

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