丹後ちりめん −81−

岩滝各区の機業 石田の機業(4)


大正9年(1920)世界大戦後の恐慌となったが石田区に於ては幸い倒産するものはなかった。
大正10年10月、丹後縮緬同織組合が発足したが、その組合に石田の機屋は大体加入した。
大正4年(1915)の春頃より、丹後縮緬国練期成同盟会が発足した。
これは従前からの大懸案であった。即ち丹後縮緬はただ製織するだけで精練は京都で行い、京都の商人に都合のよいようにされていたので、之を廃し、丹後の縮緬は丹後が精練して丹後縮緬の発展を期するということである。
この改革運動の中心人物は吉田仙助、栗倉惣吉、藤村兼蔵の3名であった。この趣旨が認められ遂に昭和3年(1928)9月1日、国練、検査制が実施された。ところが、この制度は一大改革であって結構なことであるが、強制的である。それで、機屋の中にはこれは自由精練にすべきである。殊に重目の品は丹後では立派な精練ができないので、京都との取引上、大きな損失があるというので、この国練に反対するものが次第に現われてきて、昭和4年早々反対運動に乗りだして、遂に5月5日、反対者によって「丹後縮緬同業組合革正会」を結成し、漸次活発な運動を展開して来た。
その時の中心人物は、峰山町行待武兵衛、当石田区の山添定吉、山添規一郎の3名で、その意気は天を衝くの感があった。
すなわち、彼等3名は、同志を率いて大海原京都府知事に反対を請願したが、あっけなくその要求を却下されたので、機を逸せず、長田桃蔵の斡旋により、総理大臣田中義一を首相官邸に尋ね、同業組合法の欠陥と、丹後織物産業の危急を救うべき趣意書を提出した処、多大の賛同を得た。(その時、商工参与官牧野良三、農林参与官砂田重政、政友会吉植庄一郎も同席会議に加った)そして直ちに京都府知事に回訓した。
そこで一行は、その帰途再び知事を訪れた処、知事は前言を撤回し、反対者の為に賛意を表した。
当時政友会に於ては、同業組合法の欠点が諸所に生じ、牧野法学博士らの手で修正中の処、丹後から最も適切なる実例を得たことは真に好都合であった。

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