丹後ちりめん −83−

岩滝各区の機業 石田の機業(6)


昭和4年、角尾重助(第1代)はジャガードを織機12台に初めて取付けた。(昭和2年頃、岩滝区で一越(ひとこし)(着尺物)を初めて織った)。
昭和6年(1931)田中義一内閣倒れ、憲政会によって再び工業組合法が成立した。そして、同年11月25日丹後縮緬工業組合が設立された。その時の組合員は従前のものが加入した。
昭和15年(1940)7月7日、いわゆる7・7禁令(奢侈品等製造販売制限規則)が公布された。その時、石田区に於てはその対策として次の小組合が誕生した。
丹後織物石田第1工業小組合 山添政就及須津部落
丹後織物石田第2工業小組合 山添定吉
丹後織物石田第3工業小組合 蘇理義之助
これらの小組合は必需品の製織をしていたが、小組合も解消して、山添政就(40)山添定吉(30)山添藤蔵(15)山添正雄(10)其の他(5)の比率を以って石田有限会社を創設して必需品を製織していた。
昭和18年(1943)企業整備が強要された。この時石田区に於ては、山添定吉所有力織機40台、山添政就及び山添藤蔵所有のものゝ一部を供出した。合計19万6千円。
それから石田有限会社(社長、山添政就)は軍需工場としてクレバネットを製織していた。
第1工場山添政就30台、第2工場山添藤蔵15台、此の時、山添定吉工場は、織物は行なわず、三菱電気会社(代表中野)が出張して、職工30人により潜航艇の部品を製造していた。

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