丹後ちりめん −84−

岩滝各区の機業 石田の機業(7)


昭和21年9月、丹後縮緬工業組合は、丹後織物協同施設組合として改組された。この当時、石田区に於ては、有限会社に於て内需品として主に夜具地、兵児帯地、襟地、洋傘地、座布団地、絹広巾縮緬、人絹平地、服裏地等を製織し、輸出品としてはフラツトウレープ、デシンクレープ、絹糸縮緬等を製織した。
昭和22年、丹後織物協同組合は、丹後織物工業協同組合と改組されたが、石田区に於ては石田有限会社が加入したのみであった。
昭和17年、8年頃から23年頃まで農家賃織物(農家から生糸を出して機屋が賃織をする)が行われた。山添政就が、岡山、九州方面の農家が生産する生糸を使用して製織した。
戦後手紡織物を山添政就、蘇理義之助の両名が行い、紙織物を短期間山添政就が行った。(蘇理は日ケ谷村方面で多く織らせた)
昭和24年統制撤廃となったため、1機か2機づつ織機を据付ける機屋が出来てきた。そして、小物、襟地(本絹)、本絹風呂敷、人絹風呂敷等が製織された。
終戦後短期間であったが、織物原糸不足を補うため、山添定吉、蘇理義之助は、紡績機を供出した工場に設備して紡績業を創めた。そして、その糸で手紡糸織をした。
角尾重助は昭和17年6月から、丹後染工株式会社を創設し、社長として染色及び精練事業を行い、昭和19年安井社長となり、31年から34年まで第2代角尾重助が社長となった。30年までは原糸を精練し、染色をしていたが、31年より34年までは専ら縮緬の精練を行なっていた。
しかし、この精練業は小規模であり、他にも之れに似た精練業者もあったが、いづれも丹後織物工業協同組合の経営規模の拡大にともない、町がこれらの業者に転業補償金を出して廃業した。
石田区は昭和24年統制撤廃後、機業を復興するもの年々増加し、現在87戸を数え尚年々増加する状態である。
当区の製品は昔から、襟地、風呂敷が多く、着尺物は少なかったが、近年は先染物その他種々雑多の縮緬が製織されている。

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