丹後ちりめん −86−

岩滝機業資本の発展(2)


それに関して述べなければならないことがあるが、丹後縮緬の販路はおそくとも延享年間以降は、京都の丹後絹問屋8軒に完全に掌握されていた(住谷悦治「丹後機業の構造分析」)原料糸は丹波、但馬、近江糸なども使われたが、奥州糸がもっとも重要であったが、それもまた京都の糸問屋によって供給されていたのである。
したがって丹後機業はその原料、販路ともに、京問屋によって独占支配されていたのである(住谷悦治「前掲書」岩崎英精「丹後機業の歴史」)。こうした京問屋の独占的集荷権にたいしては、幕末には藩および岩滝や宮津に成長してきた在地の糸仲買および絹問屋が抗争をはじめるに至った。
すでに早く享和元年(1801)には山家屋の別家が糸仲買として峰山に開業しているごとく(住谷前掲書)、岩滝問屋の峰山進出がみられたが、幕末の岩滝の糸絹問屋には、山家屋(小室家)、糸井家、千賀家、米屋品蔵などがみられる。
山家屋、小室家はもともと廻漕問屋で「世々丹後の特産縮緬の原料生糸を買蒐」め「薄資の機業家に30日或は60日の●(文字不明)売を約して貸与し、織成の縮緬はこれを京都へ送って三井その他へ売却」していたが、「天保初年岩滝町小室徳蔵日本海の航路を開き、禁裡の御用を奉じて北は酒田より宗谷を経て樺太に、東は津軽を経て厚岸、択捉島に及び、西は馬関に長州に、南は大阪に至り全国港湾殆ど出入せざるなきに至り、安政年間其所有船三百石以上千石積三十八艘を数えた」といわれる(「丹後宮津誌」)。また糸井家は「同じく廻漕問屋兼糸問屋で奥州糸の直輸入をもって京都と対抗し、幕末頃には「全丹に於ける生糸縮緬の相場は同店により定まるの状態になりき。当時同店の通帳を携帯せざる者は機業家にして機業家にあらず」(「岩滝町誌」)とまで称せられた」(住谷悦治前掲書)。この糸井家は幕末から明治初年にかけては、千石船4隻をもち、千賀家また40隻の千石船をもっていたといわれている。

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