丹後ちりめん −87−

岩滝機業資本の発展(3)


すでにのべたように岩滝は湊として生命をもち、一時は宮津問屋と藩権力により他国領船入津禁止という圧迫をうけたことがあるが、前にのべた岩滝の糸絹問屋はこうした港津に成長した廻漕問屋の兼営するところであった。この廻漕問屋は幕末に至って日本海を支配するごとき発展をみ、それによって直接奥州糸の移入をおこない、京都糸問屋に対抗する強大な糸絹問屋資本となったのである。そしてこの岩滝の問屋資本は山家屋「丹後一円に於ける氏の機屋は四郡数百軒に上り」といわれるように(堀江英一「近代産業史研究」)、宮津の糸絹問屋資本とともに、歩機という形で水呑機屋などの零細機屋を支配する巨大な商業問屋資本となったのである。 またこれらの問屋資本は幕末には阿蘇海岸地帯やその他に多くの新田を開発し地主的土所有の面でも大きな発展をみたことは、千賀新田(男山府中境20町歩)、真名井新田(男山の内海沿岸、10町歩、真名井は小室のこと)の名によって知られる(いづれも文政年間に開発。岩滝小学校「岩滝町における産業の歴史」昭和32年)。さきに岩滝の階層文化の進んでいることをいったが、水呑層の対極にこれら地主・豪商が成長していった事情が対応するのである。

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