丹後ちりめん −88−

岩滝機業資本の発展(4)


ともあれ、在地に成長したこれらの廻漕兼糸絹問屋資本は、宮津藩権力と結び、丹後縮緬を独占的に支配する京問屋の力を破ろうとした(それらの一連のうごきをあげればつぎのようである。明和7年宮津藩による京都での縮緬問屋開設計画。安永7年京都三本木御屋敷を独占問屋に仕立ようとしたこと。天保6年京都用場設立。安政4年三領合同の丹後国産会所の設立。文久元年物産御改法。山家屋の京都直接販売店開設等(「与謝郡誌」その他)。岩滝の問屋資本と藩権力との結びつきはつぎの面にもみられる。 たとえば幕末において、さきにあげたが、糸井市郎兵衛が岩滝組大庄屋であり、千賀八郎助が岩滝村御領分総録であり、ほかに山家屋利七が与謝郡下組出役庄屋、米屋品蔵が同組手組となっているごとくである(「与謝郡誌」上)。岩滝の問屋資本は上のごとく藩の末端支配機構として権力の一部を分担し、一方京都の問屋の独占に対抗し、他方在地問屋資本として京問屋に代って機屋支配をおこなったのである。かくて、かの文政5年(1822)の「宮津大一揆」には、これらのいずれもは農民機屋の打毀しの対象になっている(「宮津御領分一揆強訴之事」、丹後郷土史料集、第二輯所収)。

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