丹後ちりめん −89−

岩滝機業資本の発展(5)


しかしながらいずれにしても天保から明治初期にいたる幕末30−40年は、岩滝の商業問屋資本は非常な発展をしめし、「丹後の大阪と称せられ豪商富家櫛比」したといわれ(「岩滝村誌」)、岩滝の黄金時代ともいうべき時期であった。
ところがこうした岩滝、宮津を中心とする問屋資本は、さきにのべたごとき抗策に拘らず、つねに京都問屋資本に圧迫妨害せられ、一時小室新七、糸井勘助らが京都進出をみたものの、一つには安政開港後の奥州糸の海外流出による原料支配への打撃をうけたことと、他方明治維新になり藩権力の崩壊によって、さらに新たな海上交通また陸上交通の発展により、海漕資本兼営の岩滝の糸絹問屋資本は急速に瓦解するに至った(「与謝郡誌」)。
そしてその後、明治13年、丹後最初の会社組織による生糸縮緬問屋として宮津に「盛業社」(資本金5000円)、岩滝に「盛共社」(資本金3500円)が生れた(「京都府誌」上)。
また岩滝では朝鮮糸を大量に輸入したり、絹綿交織縮緬を創織するなど技術的な発展をみたが、しかし再び京都問屋資本との競争に立ち上る力と機会を失ったのである(「与謝郡誌」)。
それとあわせて岩滝における海上勢力の衰退について若干つけ加えておきたい。
すでにのべたように岩滝は近世をとおして、またとくに幕末には港津として栄えたのであった。
さきにもあげたが幕末−明治初年には、小室徳蔵家の千石船38隻、千賀家の40隻、小室八蔵家の1隻、糸井家の4隻など大船があって、裏日本の海上交通に支配的な力をもっていた。ところが明治以降「其後次第に衰微し、鉄道敷設の恩恵は此地方に及ばず、客貨の集散吐呑に路なく、加ふるに冬季の天候は運輸の便を妨ぐるもの多く、船舶改造の急進歩に伴ひ、日本形帆船の此所に出入するもの年共に減少」した(「与謝郡誌」上)。
明治31年岩滝の船舶は、蒸気船1、日本形大船(5間以上)2、日本形小船(3間以下)34という状況となっている(岩滝町役場所蔵資料)。蒸気船1は、明治26年岩滝町有志が汽船天橋丸を買入れて、宮津との間を航海することになったものである。

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