丹後ちりめん −9−

生産方法の変化


織物、製糸等の工業は、大正の初期まで殆んど家内経営の状態であった。織物の大部分が賃織であり、製糸は座繰機械を使用して各戸で製糸を行っていた。
大正の末には、原料の処理、製産に漸次機械を利用するようになった。
製糸はすでに従来の各戸経営から製糸工場に移り、織物も家内工業から、職工を雇い入れ、機械も増加して工場組織にかわる傾向が目立ってきた。まだ会社組織の工場にはならなかったが、個人経営が次第にその規模が大きくなっていった。
次に顕著な特色は手織機に代って力織機の使用が旺んになったことである。すなわち、明治四十四年(一九一一)には力織機が僅かに二十台にすぎなかったが、大正五年(一九一六)には七倍となり、大正六年(一九一七)には十八倍、大正七年(一九一八)以降更に急速に進み、大正八年(一九一九)には六十一倍となった。明治四十四年から丁度十年後の大正九年(一九二〇)には六十五倍となり千三百十三台に達した。
これに反し、手織機は大正六年(一九一七)に僅かな増加を見たが、これは織物の需要が急に増加した一時的な現象で、大正七年以降、手織機は力織機の増加に反比例して減って行った。
尚与謝郡の織工は大正九年の調査によると、男一、二五七人、女三、三一五人、計四、五七二人で、従業員採用機業家数九一二戸であった。

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