丹後ちりめん −90−

岩滝機業資本の発展(6)


明治14年、府道丹後縦貫線が通じたが、これは隣村須津村を貫通して岩滝によらず、そのため阿蘇内海航路の主導権も、岩滝より須津に移った。
かくて「旧来岩滝が奥丹後海陸連絡の要地たりしも、右の道路は須津を通過して岩滝に迂廻せず、従来岩滝に出入りする大小の船舶は須津港頭にあらわれ、荷客の積卸頻繁となり、岩滝の殷賑は須津に移った」といわれる(「吉津村誌」)。
かくて岩滝の海漕資本は明治中期には完全に姿を消し、岩滝にかわって須津が発展することになる。大正4年の輸出入合計は須津の512万4877円に対し、岩滝は263万1378円となっており(「京都府誌」下)、盛況はむしろ須津の方に移っていった。
このような状況のなかで、かつて丹後を支配した岩滝の糸絹商業問屋資本は急速に衰亡したのであるが、岩滝の機業そのものは、明治以降もなお丹後における一つの中心として存続発展してゆく。
かつて文政年度には「縮緬機屋凡そ2百30戸、下織6百戸、市街端に住居する細民は糸繰を以て生活をなすもの又多し」といわれた(「与謝郡町村沿革調」住谷悦治前掲書引用」)宮津の機業が明治以降は極端に衰滅したのに対比される。
宮津は明治以降は機業地としてではなく商業都市また橋立をひかえた観光都市としての色彩をつくっていった。(明治25年宮津商港期成同盟会結成、29年丹後鉄道株式会社設立、40年宮津電気鉄道株式会社設立計画)。

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