岩滝の歴史 −75−

江戸時代(10)

−永井信濃守尚長−−


8月2日、町年寄の代表、本町の七郎左衛門、職人町の市郎兵衛が、嘆願書を持って京都御町奉行井上丹波守のところに行った。
丹波守が、ついでをもって、松平越前守に伝えようと約束してくれたので二人は宮津に帰ってきた。この時の費用は二百九十五匁であった。
この嘆願書が効を奏したものか8月7日、江戸の老中から万之丞の呼び出しがあり、万之丞は大和の国に一万石を与えられた。しかし、結局宮津七万三千六百石は没収された。
信濃守尚長は享年26才。寛文9年(1669)に父尚征が宮津に入城してから12年目であった。
幕府は、勘定方坂井右近はじめ、六人の役人に同勢をつけて宮津に送り、永井から取り上げた二百三十九ヶ村を検地し、二万三千五十四石五斗三合を量(はか)り出し、元高七万三千六百一石三升一合と合せて、九万五千六百五十五石九斗四合を登録し、但馬の国、生野代官所の出張所である日置村御役所に蔵入れをした。
信濃守尚長が延宝3年(1675)12月宮津領の検地を行なって六百十石余を量り出し、幕府に届け出て正式に元高に繰入れて藩の収入をふやした。今回は二万二千余石が量り出された。検地毎に草高がふえていったのは前の検地の時に規定より長い竿で測ったからだといわれている。
宮津城受取の役人は上使が柘植(つげ)半右衛門、御目付加藤兵助、森六兵衛であった。
7月28日に信濃守の家来を救済するために六千両が支給され、7月30日に城の明渡しが完了した。
京極高広の築城以来五十六年を経て、城廓は非常に破損していたので、御目付の指図によって翌年にわたり大修理を行なった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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