岩滝の歴史 −76−

江戸時代(11)

−阿部対馬守正盛(正邦)−


延宝9年(1681)4月25日(永井信濃死後3年目)武州岩槻城主、阿部正盛8才、本高九万九千六十余石のまま入城した。その結果、量出し分を合せても宮津領九万五千六百五十五石九斗九升四合では三千四百四石三斗九升九合の不足となった。この不足は代官所御蔵入りの内からつぐない、その残りの千三百十四石四斗六升が改めて御蔵入りとなり、日置村御役所の支配となった。
阿部氏の采邑(さいゆう:領地)に於ける岩滝の草高について「御料地郷村帳」は次の如く記載している。
御料地郷村帳
天和元年辛酉5月10日御拝領
阿部対馬守様御領地丹後国
与謝郡  村数 九十二
高千三百七石六斗一升二合   弓木村
高千六十一石五斗八升二合   岩滝村
高千六十石七斗五升八合   男山村
当時、宮津の町地子は十町四段七畝二歩で、この年貢は米百九石二斗八升一合であったが、阿部対馬守入城とともに一割の増税となり、その他の取扱いも次第に苛酷となった。
我が岩滝においても、京極、永井両氏の時代に比べ草高が急増している。従って岩滝に対しても増税されたことは容易に想像される。
増上寺の事件のあった延宝8年(1680)は、飢餓に続く大雪で、宮津領の倒潰家屋三千三百十七軒(全体の二十七パーセント)田畑の作物は全部枯死し、鳥獣さえも凍死する有様であった。死人は一万四千八百十六人(全体の二十パーセント)牛の犠牲は千七百八十頭(全体の約五十パーセント)(宮津旧記)
その直後の増税である。
阿部対馬守の入国を知った宮津では例によって町年寄が相談の上、本町の七郎右衛門と魚屋町の宗右衛門が、御祝儀に宮津の名物、沙魚(はぜ)の目指一箱と樽をもって、武州岩槻へ出向いた。江戸屋敷で用が達した。返礼として白銀十枚を頂だいて帰国した。
御祝儀の費用一貫八百匁は町家の間口割をもって、一間につき七分づつ負担した。
領内の数村若しくは数十ヶ村を合して一組とし、組に一名の大庄屋を置き、其の庄屋住居の村名を冠して何村組といい、其の組に属する諸村を代表して藩政に与った。当時領内に十組あったが所属の村名は分らない。もちろん我が岩滝が何組の所属であったか知ることができない。
元禄10年(1697)5月、対馬守正盛は千石加増されて十万石となって下野(しもづけ)の国宇都宮に国替えとなった。宮津在城16ヶ年、年24才であった。
城の受取役人は、上使が滝川彦次郎、杉浦弥一郎、代官は西与一左衛門、長谷川六兵衛であった。
同年5月11日卯の刻(午前6時)阿部対馬守と入替えに、宇都宮城主奥平大膳太夫正春が禄高九万石で入城した。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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