岩滝の歴史 −80−

江戸時代(15)

−享保の飢饉−


享保2年(1717)は全国的な凶作で新米一石が銀百十七匁もした。宮津領内の町民はもちろん、農民まで困窮におちいり大勢の餓死者を出した。
翌享保3年6月には、他領から自由販売される米(船米)を積んだ船が入港したので急に下落して石当り銀八十五匁になった。しかし新米は依然九十八匁から百匁内外であったし、商売は非常に不景気であった。
享保4年(1719)の秋から、不作はついに凶作となって新米一石は銀百四十二匁まで高騰した。
享保5年宮津藩の示した公定価格は
新米一石 銀百六十三匁
油一升 銀八匁八分
酒一升 銀三匁三分
であった。
しかし米の闇値は石当り二百五十匁であった。
享保6年(1721)宮津藩では銭一匁を二十文通用としたが米はかえって、銀二百十四匁となった。
しかし秋になると諸国とも豊作で、米価は銀七十二、三匁まで下落し、翌7年には更に公定価格を四十二匁におさえ、8年には三十八匁、9年には三十一匁二分六厘九毛にきめた。
享保10年(1725)も豊作で11月の新米の公定価格を石当り銀三十三匁二分八厘六毛二才とした。(宮津事蹟記)
享保11年(1726)も豊作で、公定価格は、
新米一石 銀三十三匁二分八厘六毛二才
酒一升 銀七分
菜種一石 銀二十八匁
であった。
ところが、銀一匁を七十四文通用という触れが出たので、酒一升平均六分五厘、油一升一匁七分、油一合売りで十四文、大豆一石二十五分から二十八匁までになった。それから5、6年順調な年が続いたが享保17年(1732)になって降雨が多く全国的に不作で新米が石当り銀六十匁五分に騰り同18年(1733)には九十一匁になった。
難民が出たので藩庁や有力者、寺院などから米施行(こめせぎょう:お救け米)が行われた。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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