岩滝の歴史 −82−

江戸時代(17)

−青山大膳幸道−


延享元年9月8日(1744)青山大膳幸秀(幸侶)病没した。
幸秀の長男と次男は早く世を去り、三男の播磨守幸徳は病弱であったので、四男の主計(かずえ)幸道が家を継いだ。竹野郡宇川谷、二千石は、伯父青山近江守幸澄に与えてあったが、幸道の弟の鉄之助が相続した。父の妾と家老とが密通していて、鉄之助を虐待した。
鉄之助はこれに堪えかねて切腹した。幸道は怒って、その所領二千石を取りあげてしまった。
この事件が幕府に知れ、公儀から厳しくとがめられ、幸道は閉門を仰せつけられ、宝暦8年12月27日(1758)美濃国、郡山城へ所替えを命じられた。
青山家の宮津在城は44年間であった。

山村記
「青山候ノ御時ハ岩滝ニ御番有之ト見ヘタリ」と出ている。
同書に「3月3日寛保ト改元アリ」16日触(寛保元年(1741)頃か)とあるのを見ると、この「青山候」は青山大膳幸道の時であると推察される。
「御番」は「当直または当番」の敬称である。
ここでは岩滝に宮津藩の役所の出張所のようなものがあって、藩の役人が交替で詰めていたものと考えられる。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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