岩滝の歴史 −67−

江戸時代(2) 

−京極高知(たかとも)−−

(修理太夫・丹後守・四位侍従・道可)


京極高知の父、長門守高吉は天正9年正月25日(1581)に織田信長のために滅された。
高次、高知兄弟は、姉の松丸とともに近江の国、日野谷にかくれ難をまぬがれた。
信長の没後、兄弟は豊臣秀吉に召し出され、兄高次は、二位大津宰相として、近江の松本城(大津城)主に、弟の高知は、信州伊奈の城主(飯田)または高遠(たかとう)となり、姉の松丸は大阪城によばれて秀吉の妾となった。秀吉の死後、徳川家康に味方し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦には、高知は細川忠興勢とともに関東から引き返し、岐阜城搦手の攻略に一番乗の功を立てた。
兄高次は大阪方に包囲され、松本城を孤守していたが、ついに落城した。
弟、高知はこれをきいて、岐阜城を落すと直ちに近江の国に入り、長浜の在家を焼き払って大津松本城の救援に向ったが、時すでにおそく松本城は陥落した後であった。
家康は関ヶ原の軍功を賞し、慶長5年11月(1600)信州伊奈郡飯田八万石に三万石を加増し、従四位、丹後守に任じ十一万七百石をもって丹後国田辺城主を命じた。
翌6年(1601)3月、細川忠興に代って入国した。
高知は、はじめて普甲峠を越えた時、その名が親不孝の不孝を連想させるといって千歳峠と改名した。またある日、高知は家臣一同を集め、「丹後の国は、神仏の加護によって栄えて来た国である。平和を願うものは、この先例を忘れて自分勝手な説を立て、神仏を軽んじてはならない。天皇や、将軍の政治は、皆、この神仏の心から生れたものである。われわれ臣下や群民は、決してこれにそむいてはならない。われわれは、表面は武士としての家風を本とし、内面では神仏の二法を信仰すべきである。第一には家務を果すこと。第二には聖賢の書物を読み、書経(しょきょう)、前漢書(ぜんかんじょ)、後漢書(ごかんじょ)など中国の学問に励むべきである」と訓示した。
高知は過去数年間信州の山中にあって、山ばかり見て暮していたので、田辺に転任して広々とした海を眺め、同じ田舎であっても前任地に比べると、田辺は全く都のような気がするといってよろこんだ。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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