岩滝の歴史 −85−

江戸時代(20)

−本荘資昌と丹後州宮津府志−


本荘富之助資昌は、遠州浜松城主豊後守資訓の子で、宝暦2年3月26日(1752)9歳で父を亡い、5月12日遺を継ぎ、宝暦9年6月15日宮津に入城した。
資昌の父資訓は京都所司代にもなっている。
宝暦11年(1761)資昌はすでに18歳になっていたが、病気がちで、いろいろ加療を試みたが、効果がなかった。こんなことでは公の勤もできないから他人の子をもらって家を譲ろうと考え、公儀へ願い出たところ、父資訓生前の功に報いて嗣子を養うことを許された。そこで酒井左衛門尉忠奇の四男八郎資尹をよつぎとし、家督をゆずって資昌は退任した。

資昌、宮津に来て、所領の詳しい地理、歴史のないのを遺憾とし、小林玄章、天野房成、指田武正等に命じて「宮津府志」の編纂を企画した。
宝暦13年12月1日(1763)にでき上がったものが「丹後州宮津府志」である。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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