岩滝の歴史 −88−

江戸時代(23)

−本荘宗允とこの頃の機業−


資承は寛政12年8月14日(1800)49歳で死んだ。
松平主殿頭(伯耆守)宗允が家督を継いだ。
「宮津事蹟記」には「それから8年後の享和4年(文化元年と改元)までは諸国豊作で、殊の外町方にぎにぎしく・・・」と、宮津の繁昌ぶりをうたっている。宮津領でもとくに宮津町附近は、津米といって、他領から流れ出した米が船で来たので、山間部よりも食糧事情はよかったのではなかろうか。
宗允は皆川淇園の学を修め「鳥言一篇」を著した。文化13年6月14日(1816)に死ぬ。逝年35歳。
少し話は外れるが、この頃の岩滝における縮緬機業を見てみよう。
峰山、加悦谷に、正徳年間(1711〜1715)京都西陣の縮緬が伝わってから漸次我が岩滝にも伝わったものと思うが、何ら記録の徴すべきものがない。
正徳年間から50年後、すなわち明和8年(1771)頃から漸く正確なことを知ることができるようになった。
当時既に岩滝に機数三十台、弓木村には十五台を数えるようになった。
安永4年(1775)には岩滝は機数九十八台に達した。この頃、男山にも漸く機業に従事する者があらわれ、其の機数も五台ばかりあったようである。又、弓木の支村石田は岩滝、弓木よりおくれること凡そ50年、すなわち文政年間に至って初めて機業に従事する者があらわれた。そして文政7年(1824)には機数十八台に達した。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


戻る