岩滝の歴史 −89−

江戸時代(24)

−宮津騒動@−


松平(本荘)伯耆守宗発(従四位下)は文化5年8月6日(1808)宗允の後を継いで宮津七万石の城主となった。
文化5年の米相場は、六十八、九匁。同6年は、六十五、六匁、同7年は、六十九匁であった。
上に見るように、この頃は大体平年作が続き、米価も安定していた。
文化8年(1811)は豊作で、新米一石が、銀、六十二、三匁。翌9年は春から鰯が豊漁であった。
米は次第に下落して、夏の地米で銀五十八、九匁となり、船米(他領からの輸入米)は銀四十二匁から五十匁内外となった。御家中から売出される米(御払米)は一俵、銀二十匁くらいであった。
文化10年(1813)の正月は四尺余の大雪であった。新米一石、銀六十五匁。
文化11年(1814)は寒冷で、米価はこの頃最高の、それでも、七十二、三匁であった。
文化12年(1815)は六十三匁、同13年、14年の2ヵ年は安定し、文政元年(1818)は豊作で五十五、六匁。翌2年も豊作、新米は銀五十匁内外、同3年は四十七、八匁。翌4年は五十匁。
このように米価は安定していた。
米価が安定していることは領内が平穏であるべきであるのに文政5年(1822)百姓一揆が起ったのである。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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