岩滝の歴史 −90−

江戸時代(25)

−宮津騒動A−


文政4年2月(1821)本荘宗発は幕府の寺社奉行加役として出仕することとなった。宗発は、上にお上手をして下をしいたげ、財政が困難になって、借財が増したので(宮津旧記)従来先納米といって、年末に収納すべき年貢米の内、一万五千俵を納期に先だち金銭で前納させていた。
ところが文政4年の秋から追先納米と称して、追加割当の先納米一万五千俵を、領内の庄屋中資産家二十五名を選び献納させようとした。
庄屋等は自身の献納を厭い、相謀って、領内一般に割付けて追先納米(追加先納米)を徴収した。
当時、宮津領は町方が六町内、在方が五組に区分されていた。そして、町方では町名主六人、組頭六人、手組十五人。在方は大庄屋十人、出役庄屋(大庄屋の補佐)手組連中(相談仲間)合せて三十五人、合計七十二人。
御領分総録(総頭)は岩滝村の千賀八郎助で、この七十三人の身元の者(資産家)が藩治に与っていた。
藩儒沢辺淡右衛門は、はじめ御家老相談相手として藩政に参与していたが、累進して城代格にのぼり、禄二百二十石を食み、御勝手頭取役となって金穀を総裁した。
藩財政が窮乏してきたので、御勝手掛飯原鎭平、古森乙蔵等と相談して、文政5年正月(1822)から領内住民を調査登録し、15才以上60才以下の者に日銭を課し、一人から三匁を徴収し、一匁に対して八文を前記庄屋等に分けてやることを約束し、領民から取り立てた。
領民の困窮惨膽たるものあり、その有様名状すべからざるものがあったが、江戸に居た領主宗発はこれを知らなかった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


戻る