岩滝の歴史 −91−

江戸時代(26)

−宮津騒動B−


8月13日、分宮(わけのみや)祭にあたり、藩士栗原理右衛門の庶子関川権兵衛の邸に、かつて出入りしていた石川村奥山の吉田為治郎が来て話していたが、話がたまたまに日銭のことに及んだ。
関川が同情して「百姓の難渋は想像以上だ。もと日銭は御勝手掛の専断であって、お殿様は御存知ないことだから、強訴すれば或は止めになるかも知れない」と、いった。
為治郎は急遽帰宅し、隣家の吉田新兵衛にこれを伝えた。

 

新兵衛は、更に、長五郎、元蔵、与兵、元右衛門、与次右衛門、友治郎、それから石川本村の儀三郎、九平、太三郎等を集め、鳩首凝議の結果、領内百二十ヶ村へ檄文を散布し、12月13日夜半を期し、喊声一挙、沢辺一味と結託して、領民の貴重な金をまきあげ、着服している大庄屋、出役庄屋、手組等を殺し、大挙して城下に強訴しようとうったえた。
一万の領民これに賛同し、13日真夜中、石川村の田加久郷橋詰(今火の詰の字名が残っている)浪江要助(今同家を火吹竹という)先ず炎々たる大火を燎焚くと、宮津狼煙山の頂上、三河内の沖田に火災が挙った。

 
三ヶ所同時の燎火を合図に加悦谷一円鯨声(ときのこえ)を挙げて蜂起し先ず石川組大庄屋同村芦田庄兵衛、庄屋八郎兵衛を襲い、同時に山田村石川組大庄屋小長谷安四郎を手始めに、岩滝に出て御領分総禄千賀八郎助、岩滝組大庄屋糸井市郎兵衛、翌14日上宮津村今福庄屋甚四郎、皆原組大庄屋同村三宅忠左衛門、波路村出役庄屋平左衛門、翌15日獅子矢原村庄屋市五郎、日置上村庄屋嘉左衛門、同浜村庄屋与助、加悦町大庄屋下村武右衛門、後野村組但馬屋太兵衛等、各地の豪家を襲撃して八方から宮津城下に迫った。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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