岩滝の歴史 −93−

江戸時代(28)

−宮津騒動D−


又、日ヶ谷村出役六郎右衛門、菅野村出役武助などを破った橋北勢が加わって番舎の火の手と防士の退却と、同勢の倍加が一時に起って蛮勇を煽り、雪崩をうって市街に突喊し、白柏町酒屋垣田清治、茶屋甚治、同町名主一文字屋勘兵衛、横町綿屋万助、大津屋善治、魚屋町名主追掛屋喜兵衛など、徹宵財物を破却し、到る所に修羅場を演じ、翌16日早朝同勢雲霞の如く大手門前に詰めかけ
「沢辺談右衛門、飯原鎮平、古森乙蔵を領分の百姓が申し受ける」と、迫った。

城内から掛りの者が、声をからして制止、鎮圧を試みたが、群衆は少しもきかず、双方論戦、せり合いの結果「栗原理右衛門殿の挨拶があれば承ろう」ということでやっと落着した。
時に、理右衛門、百助父子は2、3日前、江戸から帰って賜暇休息中であった。
突如評定席から「即刻登城せよ」という急な召集に接し、老体道中寒気に侵され、臥褥を理由に、子百助が父の名代として出仕した。意外にも暴動の鎮圧を命じられ、火急の場合上司の命を受けてことわりもできず、下城して父に相談した。

「国の暴動は我等の関係したことではない。殊に城内にはそれぞれ役人もある筈だ。先日帰国したばかりの我々に役目を仰せつけるのは心外だ」
「けれども、焦眉の危急、是非を論じている余裕はありません。斯る凶変はもとより御家の恥であります。寸刻も早く鎮圧しなければなりません」と、父子の相談がまとまった。
百助は供廻りを用意して大手口に出、音吐朗々「拙者百助上意を蒙り、実父理右衛門名代として此の所に出張し、領民に一同に挨拶しようと思う。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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