岩滝の歴史 −68−

江戸時代(3) 

−京極高知(たかとも)−−

(修理太夫・丹後守・四位侍従・道可)


慶長7年(1602)高知は、丹後全域にわたって精密な検地を行なった。
豊臣秀吉の方法に習って、六尺三寸を一間、一間四方を一歩、三十歩を一畝、十畝を一段、十段を一町とした。従来の代(だい)、束(そく)、籾数(もみがら)、永楽銭による貫高などを全廃し、新たに産米の梏量を基礎にして草高(くさだか)といった。
草高を決めるには、まず、耕地を測って田畠の面積をたしかめ、次に地味や土質、便不便などを参考として、上、中、下、下下(げげ)等、等級を定め、等級ごとに、二、三ヶ所の稲の坪刈(つぼかり)(一歩=一坪の稲を刈る)をして玄米に調製し、その量をたしかめ、その角量(石盛、こくもりに土地の等級毎に全面積を乗じてそれぞれの生産高(石高)を算定した。そして、村や町の石高を合せて各町村の草高を決定した。
こうして算出された我が岩滝の当時の石高は次回にする。
高知は長子の万作丸が死んだ後に男子がなかったので妹の二男高通(高道、たかみちを婿養子に迎えたが、その後高三(たかみつ)と高広が生れた。
高知は田辺に入国してから22年目の元和8年8月12日(1622)に病死した。
高知は家臣岩崎豊後守に遺言状をつくらせ、公儀(幕府)に、丹後十二万三千七十五石を高通、高三、高広に分け与えることを願い出た。
高通の実父は杤木兵部少輔、母は高知の妹であるので、一万石を与えて嶺山(みねやま)に封じた。
高三は妾腹の子であったので三万五千石をもって田辺に封じた。
高広の母は毛利秀政(一説には毛利河内守秀頼)の娘で氏素姓が正しいから、これを相続人と定め、残りの七万八千七十五石の宮津を与えた。
元和9年(1623)徳川家光が三代将軍になった。
この年から宮津の館を拡張して海岸に築城を始め、寛永2年(1625)に城廓がほぼ出来上がったので、高広はここを丹後の本家として田辺城から移住した。この城の形は鶴の舞う姿に似ていたので「舞鶴城」といった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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