岩滝の歴史 −104−

江戸時代(39)

−おかげまいり(中)−


「宮津日記」には、伊勢抜参(おかげまいりのこと)もっての外そうぞうしく、幼少の者には才領(宰領=団体の旅行者の世話をする者)の者がつきそって参詣するようにせよ。と、いうお触れがでたと記されている。
また、天文5年5月(1740)に届けられた、参宮人数の覚には、宮津からおかげまいりをした者は、八百五十七人に達している。(宮津日記)
「三重郷土誌」には、明和7年(1770)から、翌8年にかけて伊勢神宮に参拝することが流行した。
此の参拝はすなわち、一種のおかげ熱に浮かされ、道中の籠駕は矢次等の無賃流伝する所となり、見目よき婦女の如きは直ちに捕えて駕に投じ、またたくうちに伊勢に送り、飢ゆれば食い、渇すれば飲み、往還殆んど自他の別がなかったという。と記している。
文政13年(1830)3月からまた流行した。文政13年12月24日に改元されて天保元年となった。天保元年はいわゆるおかげ年である。

「天保元年、また参宮熱流行し、前と同じように、婦女子を誘拐し、食を求むれば、甘味あり、唾を欲すれば玉楼に導き、栄華を尽して伊勢参宮をした。
当年5月末から天保6年頃、我が郷土は伊勢熱おとろえて一の宮熱が昂(たかまり)り、府中の一の宮である籠神社へ参拝するもの陸続として蟻の如く、沿道の家は仕事を休んで旗や幟を立て、酒食を供して、賽客の迎接に日も之れ足らない有様であった。
紅木綿の鉢巻に一種異様の服装をまとい、老幼婦女子例によって駕にのせ、「お蔭でシヨーア抜けたとセ」と、拍子面白く徘徊すること三、四旬(三、四十日)盆前になって稲田に雑草叢然たるを見るに至り、漸く気付きはじめて家業についたという。(三重郷土誌)

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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