岩滝の歴史 −69−

江戸時代(4)

−京極高広−


父高知の遺言によって七万八千百七十五石、丹後守を継いだ京極高広は、寛永二年、新装成った宮津の舞鶴城に移った。領地は、与謝、中、竹野、熊野四郡と、加佐郡の一部にまたがり、村数百五十八ヶ村、人口七万五千百五十余人であった。
「京極御領地村高帳」によって、当時の我が岩滝町の草高を見てみる。
御拝領 高七万八千百七十五石内
与謝郡 五十二ヶ村
高 八百五十六石二斗三升(忌木村)
高 六百五十三石八斗四升(岩滝村)
高 六百二十六石九斗五升(男山村)
高広は元和9年(1623)参議岡山藩主池田輝政の娘を迎えて妻とした。
義父池田輝政は、徳川家康の外孫に当り有名な切支丹大名で、その娘を妻とした高広もキリスト教の信者になっていたのであろう。寛永8年(1631)には、領内の真言と山伏をことごとく領外に追放した。
高広は、竹野郡小浜の里(網野町)曹洞宗湖秀山竜献寺(こしゅうざんりうごんじ)の境内に「一覧亭」という別荘を建て、離湖(はなれこ)の佳景を楽しんだ。
寛永14年(1637)島原の乱が起り、翌15年には切支丹の取締りは一層きびしくなったが、領内の取締りは形式的なものであった。
高広は、丹後特産の精好(せいこ)織物(絹)に運上(うんじょう:税金)をかけ、更に、精好織(せいごおり)から絹紬(きぬつむぎ)に転向するよう命じた。
承応3年4月23日(1654)[一説には明暦2年(1656)]高広は眼をわずらったので所領を高国にゆずり、惣村(宮津市)に広大な屋敷を構え、剃髪し安智斉と号し一万石の隠居料をもって引退した。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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