岩滝の歴史 −107−

江戸時代(42)

−宮津藩の海防(上)−


天保15年(弘化元年:1844)異国船が長崎、松前沖に現われた。
嘉永2年(1849)3月20日には宮津領内、長江村沖に異国漁船三隻が漂着した。(縁城寺年代記)
嘉永6年(1853)6月には、米使ペリーが浦賀に来船した。
宮津藩にも江戸から飛脚が来て、相州浦賀にアメリカの軍船が多数渡来した由を知らせた。
幕府は江戸警固のため、諸大名に出府を命じた。
更にその年には、ロシアの使節プーチャチンが長崎に渡来し、鎖国の夢は破られた。
国々の防備は一層厳重になり、唐金類の買上げが始まり、しまいには寺院の釣鐘まで上納させて大砲を鋳造した。その上若者たちは足軽に召し抱えられ、財産のある者は御用金を仰せ付けられ、六〆目玉、三〆目玉の大砲や具足類を江戸へ送るなど藩主も領民も大わらわであった。
9月12日から島崎の御城裏に砲台を築くよう発表があり、家中は勿論、藩主宗秀自ら毎日亀ヶ丘砂山と、大久保古稲荷山の二ヶ所から砂運びをした。
「安政3年(1856)9月12日、宮津城外島崎に砲台築造始まり、御殿様、砂御持運びなさる」と「縁城寺年代記」にあるが、藩主自ら陣頭に立って指揮をした。
町方、在方からもお手伝いを致したいと願い出た。毎日、酒一合づつをふるまわれ、一千人から三千人くらいが翌年の春まで出勤し、宗秀はそのため参勤交替の日取りを9月まで延期してもらって砂をはこびつづけ、閏5月大半を完成、八百〆匁の大砲十五門を据え付けることとなり、一門の経費を千両として一万五千両。大砲は角屋清兵衛が製作にかかり8月末に終り、4ヶ月おくれて9月、宗秀は江戸へ出発した。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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