岩滝の歴史 −109−

江戸時代(44)

−大内峠の関所−


尊王、攘夷、討幕と世論が高まり、文久3年(1863)には藤本鉄石らの天誅組が、大和五条の代官所を襲った。
同年10月11日、平野次郎国臣が生野鉱山に挙兵して生野の代官所に乱入した。
その度に、久美浜代官所警備のため宮津、峰山両藩から応援のため派兵した。
文久3年2月、将軍家茂の上洛を前にひかえて、京都等持院にある足利尊氏三代の木像の首を切り、三条河原にさらし「斬奸状」の立て札を建てて討幕のさきがけをした中島、三輪田の同志の中に、岩滝の小室利喜蔵(信夫)があった。
小室信夫は、岩滝の生糸ちりめん問屋山家屋で京都、峰山にも支店をもっていた。信夫は国学に明るく、文字文章にすぐれていた。この斬奸状も彼が書いたもので、その筆跡から足がつき藩吏に追われる身となった。
こうした続発する事件から勤王の浪士に対する弾圧が厳しくなった。
慶応2年(1866)4月、備中の国、倉敷代官所焼打事件がおこり、久美浜代官所警固のため宮津藩から二百余人が出陣している。
この事件から大内峠、岩屋峠、与謝峠の三ヶ所に関所を設けた。
「縁城寺年代記」には「丙寅二(慶応2年、1866)8月、宮津様、大内峠、与謝峠、普甲峠御台場築立」と記されている。
大内峠の関所には、御陣屋が設けられ、土塀で前後を囲い、東西に関門をつくり、朝6時に開いて午後6時に閉じた。御陣屋には、番頭外少数の役人が詰めて、一々通行人を取り調べた。(宮津旧記)
慶応3年(1867)宮津藩の防備は更に強化され、町方、在方の取締りは一層厳重になった。
当時の兵力は士族四百四十九人、卒族二百三十九人。大砲は島崎六門、片島、橋立各二門であったと伝えられている。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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