岩滝の歴史 −112−

江戸時代(47)

鎮撫使の迎送(前編)−


「西園寺三位中将が山陰道鎮撫惣(総?)督となって出張されることになった。追々に指揮の次第もあるが、心得のために申しつける」以上のような達しが、慶応4年(明治元年1868)1月6日夜、参与御助役坊城侍従から宮津藩京都留守居森田重兵衛に渡された。
1月18日、勅使一行が田辺(舞鶴)に到着したので、宮津からは家老関蔵之丞、番頭河瀬外衛が御用伺として出役。同日勅使の通行筋の高札(宮津藩の出した)を取りはずし、社寺其の他に出ていた葵の紋(本庄氏の家紋)の付いた品を悉く取片付けさせ、21日勅使一行を迎えた。
此の日宮津に来た同勢は、御本営三十二人、郷士六十二人、薩州百八人、長州百十七人、柏原八十一人、園部六十人、笹山六十四人、出石四十八人、福知山百人、田辺五十四人、合計七百二十八人。これに先着の兵を加えると千人に近い数であった。これは寛文の昔、京極家が没収され宮津城受取以来の混雑だったと伝えられている。
宮津に来た鎮撫使に対する宮津藩の歓待の様子は「丹後宮津志」に詳細に記されているが、勅使の様子、態度等についての記録はない。峰山郷土史によってその一端を推察して見よう。
「当時、閣下は年小、崩黄地(もえじじ)の装束(黄と青の間色の礼服)に太刀を佩(は)き、立鳥帽子をかむり、馬上優美の姿と、薩長扈従(こじゅう)の兵士は、黒覆輪(ふんりん)のマンテル(洋服)に日本刀を帯し、陣笠をかむり、洋銃をたずさえ・・・」(寺田惣右衛門書簡)
また、物かげから拝んだという者の話では、綺麗な神主さんそっくりのお姿であったといい、また、御太刀が地上にひきづる程長く見えたなど、語り伝えられている。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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