岩滝の歴史 −70−

江戸時代(5)

−京極高国−


高国は、父高知の悪政を見るにつけ、困っていた。
高国が家を継いだ当座は政治にも熱心で、上を敬い、下々の者を大切にしたので、家来は勿論、百姓町人まで、今までの京極家に対する反感を忘れてよくなついていた。
しかし、いつしか慢心して、親兄弟や、家代々の近臣をしりぞけ、新参の者を引き立て、領民を酷使、搾取し、また家臣に与える俸禄からさえ利息を取るという有様であったので、領民は非常に苦しんだ。
この原因は、父、安智斉高広が、自分の政治のやり方についてあれこれと批判する高国を敬遠し、三男の信濃守高勝に後を継がせようとしたが、幕府が許可しなかったので、やむなく嫡子高国に相続させたので、高国に対する態度が冷淡になったことにあるようだ。
高国も、親を粗末にし、弟を憎むようになり、親不孝や弟いじめが絶えなかった。
こうした家庭内の不和、不満が領民に対する粗暴な態度となって現れた。ある日、高国は湖秀山竜献寺の一覧亭に遊んだ。
湖中に網を入れ、取れた魚を寺の中に持ち込んで料理をさせ、酒宴のさかなにした。
寺僧が見かねて側近の家来を呼び、「殺生禁断の場所で魚をとるばかりか、肉食をはばかる寺内に持ち込んで、これを料理して酒のさかなになさるとはひどすぎます。どうかこればかりはお慎み下さい。」と、いった。
高国は、「無礼者、領主の行ないに対し、坊主が何を言うか、すぐにひっ捉えてしまえ。」とおこった。
寺僧は、かろうじて本尊仏を奉じて木津の庄(網野町)に逃げた。そこで高国は、竜献寺の伽監に火をつけて焼き払ってしまった。
高国は、惣村の父、安智斉にまで干渉した。
たまりかねた安智斉は寛文6年(1666)「諸悪事四十八ヶ条」を書き、訴状を公儀(幕府)に差出すことに決めた。これを知った家来の分部玄部(わけべげんぶ)は、高国の前に出て、「外の事は如何様にも弁解ができますが、親不孝だけは言いわけが立ちません。」といっていさめた。
如何にいさめても高国が聞き入れる様子がなかったので、分部は鉄砲で自殺した。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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