岩滝の歴史 −71−

江戸時代(6)

−京極高国−


幕府は安智斉から再三訴状を受取っていたが、藩内のことはなるべく藩で自主的に解決させる方針で、黙殺していた。しかし「諸悪事四十八ヶ条」が提出されたので幕府はいよいよそのままにしておくことができなくなった。
寛文6年3月(1666)高国が参勤交代で江戸に着くのを待ち、5月3日、伝奏屋敷に呼び出し、四十八ヶ条につき逐条問いただした。高国は、四十七ヶ条までは弁明していったが、親不孝だけは申訳が立たなかった。そのために高国は所領を没収され、奥州南部藩にお預けになった。
5月9日、江戸表から飛脚が着いた。一大事を知った宮津藩では落合主税介ら五人の発起で、家中全員を本丸に集め、「殿様から書状が着かない間は、城の明渡しを拒んで籠城しよう」と、決議した。
籠城に賛成し、調印したもの六十一人。
籠城不参加の者、幕府の命に従うもの、裏切者、二十三人もまた連判状をつくって、安智斉の召抱えの浪人今井治郎左衛門を使者として、城受取役松本主殿正(とのものしょう)、小出伊勢守に差出した。
この度の出来事は私の不調法で致し方ないが、家中の者を流浪させることが、何よりも可愛想である。
いうまでもないことであるが、宮津城のことは、御上使のお差図通り明け渡すべきである。
5月6日    丹後守 高国
右の書状が5月16日に、落合、沢、伊木、中江あてに届いた。
籠城騒ぎも無事おさまり、寛文6年6月5日(1666)城は明け渡された。
城受取りの御上使青山大膳亮(すけ)幸利(尼崎城主)大目付黒川丹波守正直。城受取役本丸松平若狭守康信(笹山城主)二の丸松平主殿頭(かみ)忠房(福知山城主)三の丸松平伊勢守吉久(園部城主)安智斉が、幕府が父親の気持をくんで、所領は三男高勝に譲れというだろうと考えてうった芝居が喧嘩両成敗になった。高勝は閉門。高国と、長子の近江守高頼には三千俵、安智斉と他の子供には各々黄金二百両が与えられたにすぎなかった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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