岩滝の歴史 −72−

江戸時代(7)

−京極高国−


高国の子どもの中松之助五才は松平相模守に、万吉四才は松平新太郎に、杢之助三才は伊達近江守に、それから十九才、十六才の二人の娘は松平亀千代にあずけられた。
当時の宮津城内の黄金は四万二千二百四十四両であった。
この内から家老はじめ掃除坊主、仲間(ちゅうげん)、厩(うまや)番に至るまで、禄高に応じて手当金が分け与えられ、縁故をたよって、他領に立去る者には、宿泊の便宜や、道中の安全を計って、それぞれ証文が与えられた。
領内にとどまることを希望する者には、よく身分を取り調べた上、そのまま召抱えられた。
家中の者の武具、諸道具は所有者の自由にまかせ、立ち退いた空屋敷は、適当な町人や百姓に留守番を命じた。

また、お蔵の種籾(たねもみ)は、小作、借用希望者に、証文と引き替えに貸し与えた。
宮津藩七万八千百七十五石は幕府料(御料御蔵入:ごりょうおくらいり)となり、但馬の国、生野代官所の支配になり、加佐郡波見村に出張所が設けられた。中村杢右衛門が初代代官となって就任した。出張所の元締めは猪飼治郎兵衛。次に藤林市兵衛となり、部下七人を指揮して支配した。
南部藩におあづけになっていた高国は9年後の延宝3年(1675)配所の南部で六十才で世を去り、安智斉高広は、その後京都の岡崎に庵をつくって住んでいたが、11年後の延宝5年に死んだ。
丹後京極の本家、宮津七万八千百七十五石はこうして僅か41年で終った。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


戻る