岩滝の歴史 −74−

江戸時代(9)

−永井信濃守尚長−−


尚長は学問を好み、先賢を尊び、神をあがめ、絹織物を奨励した。(宮津旧記)
また所領をくまなく巡視して各地の歴史を調べている。
宮津、峰山、田辺、幕領の各村々と、御領目録に出ていない枝村(えだむら:端村、端郷)を丹後全土にわたって記号で区分し、村高を明示した。「永井領地絵図」が著わされている。(永井信濃様御領地之図 飯尾長之助蔵 丹後宮津誌)
延宝8年5月8日(1680)四代将軍家綱が没し、その法事が6月25日から27日まで江戸の芝増上寺で行なわれた。

この時、尚長は伊勢戸波(鳥羽)の城主内藤和泉守に殺害される事件があった。その様子を「宮津日記」の矢野記、村田記及び藩翰譜続編等を参考にして見よう。
法事の奉行に永井信濃守、土屋相模守、内藤和泉守の三人が選ばれ、御目付役は日根権十郎が勤めた。
27日の申の刻であった。
役目の上の意見の相違があったものか、内藤和泉守は不意に脇差を抜いて永井信濃守の後から斬りつけた。永井は後を向いて斬り合おうとしたが、痛みに耐えかねて倒れてしまった。
内藤はその場に居合せた大名たちに取押えられ、翌日切腹を仰せ付けられ、家は断絶となった。
「宮津事蹟記」では最初、永井が内藤に斬りつけたが刃先が鴨居に切込み仕損じた。その隙に、内藤は振向きざま永井を一刀のもとに斬ったといっている。
7月2日、江戸表から生野半七、山崎金右衛門の二人の早打がこの悲報をもって宮津に着いた。
宮津では7月12日、弟万之丞(12才)が、信濃守の跡が継げるよう、如願寺、分宮(わけのみや)神社に祈祷を依頼した。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


戻る