岩滝の歴史 −185−

戦後における町村合併(12)

−京都府市町村合併史の概観(1)−


岩滝町は明治二十二年の大合併のあと男山分村事件を経験したが、今次の大合併に際しても難航をつづけ未合併(明治二十二年合併のままの町村は府下で四町村)のまま残ったいま昭和二十四年の発端から同三十二年に至る経過のなかで、合併運動のもっとも激しくなった昭和二十八年からのできごとを京都府市町村合併史は次のように概観している。
昭和二十八年に入り、町村合併促進法の制定を前にして、岩滝町は未合併町村扱いを回避するため五十河村との合併を考えるようになっていた。五十河村は郡境も異にし、岩滝町とは山岳によって隔てられる純農村で、地形上の連絡も良好とはいえないし、機業の町としての岩滝町とは、産業構造を異にし、合併論議は予想の外ともみられる。
しかし、一面五十河の地域は古く与謝郡であったこともあり、村内の延利、新宮等からは薪炭、蔬菜等が町に出荷され、日用品を町内の商家に求め、五十河村内の女子は岩滝町内の機業家のところで働く者もあり、比較的相互の関係は深いものがあった。
昭和二十八年九月六日、町会は合併問題を協議したが、五十河村との合併話し合いも有意義として、同村との合併懇談会をもつこととし、一方府中、吉津両村に対しても町会だけでなく住民団体を含め、全町的に働きかけをすることになった。しかも一方では六ヶ町村の協議にも参加するなど複雑な動きをみせた。
いよいよ十月一日町村合併促進法の施行により、宮津市制の動きも活発さを加えていった。
昭和二十九年一月に入り、これまで府中、吉津両村に向け熱心な勧誘をやったものの、両村では一部住民がこれに呼応しただけで、全体的な動きとはならず、大勢としては宮津市制へ傾斜していった。これは岩滝町側にも微妙な影響をもたらし、阿蘇海三町村合併の構想のかたわら、宮津市制参加の声も聞かれるようになった。町では一月の八ヶ町村合併協議会に参加、合併条件を協議、新市町村建設計画の審議にも参加するようになった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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