岩滝の歴史 −186−

戦後における町村合併(13)

−京都府市町村合併史の概観(2)−


さて、大宮町ではさきの合併以来、時の経過をまっていたが、府の合併計画策定を目前にして、二月十三日まず大宮町から五十河村へ合併を申し込んだ。二月十八日岩滝町も同村へ合併を申し込み、これより五十河村は両町からの誘いをうけて、村内は両派の対立抗争の場となった。
一方、宮津市制の動きも活発となり、三月二十九日には岩滝町より遠隔地にある養老村がまず市制参加を表明し、さらに四月二十八日になると日ヶ谷村も市制参加に踏み切った。また四月二十日発表の府合併計画においては審議会の答申どおり八ヶ町村案(宮津、岩滝、栗田、吉津、府中、日置、世屋、由良)となり、周囲の状況は急速に動いていった。

嶋田町長は四月六日、町会全員協議会において、三ヶ町村合併の見込薄なことから、宮津市制参加もやむなしと方向転換を匂わした。しかし、これは機業家を中心とする宮津市制参加反対、五十河村合併意見が大半を占める町会意見と対立する結果となった。町会では住民投票により相手方決定の論もあったが、世論は宮津市合併反対が多数を制していたので、あらためて住民投票は行なわれなかった。ここにおいて嶋田町長は辞任した。ついで二十九年五月無投票当選となった後任町長(沢田千代蔵)は機業家で議会勢力の代弁者とみられ宮津市合併反対、五十河村との合併を推進した。 このため、二十九年六月一日宮津市の発足によって、岩滝町は未合併として残り、宮津市は飛地合併同様となった。そこで政府においても将来岩滝町の参加が強い希望事項とされるようになった。岩滝町と同様、孤立の五十河村は、大宮町、岩滝町双方からの誘いかけをうけ、文字どおり合併をめぐる抗争対立の中に日をおくる始末となった。同年八月五十河村村会議員の選挙の結果は、岩滝派がわずかに優勢となったが、なお伯仲の間にあった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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