岩滝の歴史 −14−

平安時代A−仏教−


奈良時代に都をかざった大きな寺院はいづれも国家機関か、有力な貴族や豪族の建てた宗教施設で、広く民衆のために開かれた会堂としての性質をもっていなかった。

国家や貴族の保護のもとにあぐらをかいていた奈良時代の都市仏教にあきたらぬ最澄は比叡山に天台宗を、空海は高野山に真言宗を開いた。奈良時代の都市仏教に対して平安時代の仏教は山林仏教といわれている。

宮津市、与謝地方に奈良時代から平安時代に建てられた寺院の多くは、当時真言宗に属し、盛大であったが、後に他宗に改められ、建物宗派ともにもとのまま今に伝えられているものはない。

空海は弘法大師の名で広く民衆に親しまれ、至る所に足跡を残している。弘法大師が42歳の時、即ち嵯峨天皇の弘仁6・7年の頃(816頃)丹後に巡錫(じんしゃく)し縁城寺中郡峰山町橋本に参詣した。百年前に善無畏三蔵が縁城寺に書き残しておいた「天衣記」を読んで大師は一層信仰を深め「発信貴山」(はしきさん)の山号の額を書いて去った。

大師はまた磯砂山に登り、前世で仏であったという霊木を発見し、その木で薬師如来、観世音と自像の三体を刻み、笛原の里に笛原寺を建ててこれを安置したという伝説がある。

一条天皇の時、丹後の国司であった藤原保昌は華厳院を建てて法華経六万部を読誦した。今伊根町朝妻六万部にある振宗寺が華厳院でもと真相寺といっていたが後曹洞宗に改めた。保昌はまた文殊(宮津市)智恩寺の改修も行っている。智恩寺の創立ははっきりしていないが、醍醐天皇の勅額と伝えられているものが残っている。智恩寺は臨済宗に属している。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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