岩滝の歴史 −141−

明治維新後(28)

−男山分村問題(上)−


明治二十二年(一八八九)の町村制実施に際し、岩滝・弓木・男山の三ヶ村は合併して岩滝村となった。しかし、もともと経済圏を異にする三ヶ村を一つの行政村とすることには多少無理もあったので、旧村意識も加わって、男山村の独立=分離を要求する運動が長年にわたって展開された。
まず、明治二十二年の合併に先立って、男山村はその前年の八月一日「男山村独立之義ニ付懇願書」を郡長に差出した。
その内容を要約すると、
(1)男山村は戸数一四八戸で挙戸農業であり、兼商八戸、兼酒造業一戸であるが、岩滝村は商工業が中心であり、両村の人情を異にする。
(2)明治五年の八幡神社氏子分離以来、両村間の折合いも悪い。
(3)岩滝小学校は三ヶ村総合であるが、男山村では明治十六年に小学校校舎を建て、三ヶ村総合から分離を請願した。
(4)基本財産や積立金の状況からいっても、男山村だけで十分独立村としてやってゆける。
というのである。しかし、結局この要求はいれられず、明治二十二年の三ヶ村合併となった。
ところが、明治三十年(一八九七)一月、男山部落総代から岩滝村会議長あてに「村政改革建議案」が提出された。この建議案は、次の八項目からなっていた。
一、村会議員ノ任務ヲ尽ス事
二、常設委員ヲ廃シ臨時委員ヲ置ク事
三、役場吏員解職ノ事
四、戸数等差改正ノ事
五、法律勅令ヲ人民ニ周知スル事
六、村民人民ニ懇切ナルヲ要ス
七、冗費ヲ省キ節倹ヲ為スコト
八、学事発達ノコト
これらの内容については明らかでないが、要するに戸数割が男山に過重であることや、村税の負担に見合うだけのものが村民に返されていないとの判断から、村政改革を要求したものといえよう。しかもその背景には、合併以前からの分離要求が存在していたので、この建議案提出は、これより七年間にわたる分村運動のきっかけとなった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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