岩滝の歴史 −142−

明治維新後(29)

−男山分村問題(中)−


翌三十一年四月、男山部落はさらに岩滝村当局に対して「役場整理建議案」を提出した。こうしたことから、同年村会では男山部落の分離を可決したので、これに勢いをえて、男山部落は同年十二月三十日「男山分離独立願」を知事に提出、翌三十二年二月二日にも「岩滝村男山分離独立ニ付再願」が出された。この時の願人は「高岡市左衛門外十名」であった。三十一年十二月に提出された分離独立願によると「明治二十二年以来本年ニ至ル迄モ熟慮考察仕候処、第一ニハ経済ノ特異ナル点、第二ニハ議員選挙ニ特約アル点、第三ニハ徴税ニ不公平アル点、第四ニハ徴税重担ナル点、第五ニハ道路開鑿ニ競争アル点・・・其他枚挙ニ遑アラザル理由有之」としている。そして、地形人情の全く異なる村を一つの村にするのは自治制の本旨にもとるものであり、男山は町村制の基準である戸数三百に満たない小村ではあるが、十分に独立してゆけるだけの基本財産をもっていると強調していた。 これに対して、当時の村長代理山崎義丈は、男山分離は不適当との意見を郡長に伝えている。(三十二年二月十五日付)
一方、これとほぼ時期を同じくして、三十二年二月二十五日岩滝部落からも分離独立願が提出されている。これによると、両部落の対立事情の説明はほぼ同じであるが、明治二十二年以来、十年間に村長の更迭をみること七回の多きにわたり、そのうち字岩滝からの選出は一名にすぎないこと、また男山部落が分離され、岩滝と弓木だけが残ると、両字間には牽制するものがなくなり、軋轢を増すおそれがある、といった理由もあげられている。このように、分離独立願は、両部落から出されたのであるが、内海知事は、両部落が独立すれば、小村として独立困難と判断し、二月二十八日「・・・分離独立願之件詮議ニ及ヒ難シ」男山の願書を却下した。また岩滝部落に対しては、三月七日、郡長が部落の代表者を説得したりしている。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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