岩滝の歴史 −17−

鎌倉時代A−丹後と平家−


平家滅亡の頃、丹後は小松内大臣重盛の所領で、その役所は府中の小松(宮津市)にあったと伝えられている。

重盛の死後は五男忠房が丹後の守に任ぜられ、丹後の侍従といった。重盛や忠房は丹後に下らず代官をおいて丹後を治めさせたものであろう。

屋島の合戦で敗れた平忠房はいったん丹後に遁れていたが到底平家の勢いを挽回することのできないことをさとり、鎌倉に自首した。源頼朝は兵衛尉藤原(後藤)基清に命じて近江で忠房を殺させた。

忠房の妾に花松という白拍子があった。花松の父は、白糸浜の長者といって、白糸浜(天橋立附近)から日置附近まで領していた岩井左衛門というものであった。

花松は、屋島の戦ののち、忠房の行方がわからなくなったので、必ず源氏の討手が丹後にさし向けられるであろう忠房の子どもを敵の手に渡すよりも、いっしょに死のうと覚悟をきめ、後事を矢野長左衛門頼信と主馬判官盛久に託し、その夜明け宮津、文殊街道、橋立切戸にのぞむ老松のかげの大岩から水中に身を投げて死んだ。人々は花松の死を哀しみ、この磯を「泪の磯」、海に飛び込んだ岩を「身投石」と呼んでいる。

花松の投身自殺は忠房の子どもを救おうとする手段であった。花松から若君に託された矢野頼信と主馬判官盛久は、若君を守護して小松の館にいたが、源氏の討手にさがしだされ、戦敗れ、頼信は若君を連れて野間の庄にのがれ、盛久は、成相寺の一の辻堂附近の大松の下で捕えられ鎌倉へ引渡された。

この松を盛久松といっている。しかし一説には盛久を縛りつけた松は栗田郷の上司町(宮津市)の高妻山にあったが、今は枯れてしまったといわれている。

矢野頼信は忠房の若君を伴って、木子(宮津市)にかくれていたが、里へ塩を買いに出た者の服装から発見され討伐された。

頼信の子ども、教念(きょうねん)祐念(ゆうねん)の兄弟は剃髪して親鸞上人の弟子となって生命を助けられた。木子護念寺には「平家の赤旗」といわれるものが保存されている。

なお、忠房の子どもの行方については伝えられていない。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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