岩滝の歴史 −22−

鎌倉時代F−南北朝の対立と丹後−


後醍醐天皇の建武元年(1334)日本の政治が、北条氏の手から天皇に復った。いわゆる「建武の中興」である。しかし、これも長くは続かなかった。
朝廷にある公卿たちは政治が不得手で、論功行賞は公平を欠き、源氏の一族である足利、新田の両氏は相反目し、足利尊氏は北条時行の乱を平定するためであるという口実をもうけて鎌倉を下り、そのままいすわって征夷大将軍関東管領を自称した。
新田義貞は後醍醐天皇の命をうけて尊氏討伐に向ったが反って敗れて逃げかえり、尊氏、義直の兄弟は義貞の後を追って都に迫った。
延元元年(1336)に丹後の軍勢は足利尊氏に召されて上洛したのであるが、楠木正成、北畠親房、新田義貞等の連合軍に敗れ、尊氏は九州に敗北した。

尊氏に置き去りにされた丹後の軍勢は、郷土へ引返したもの、あるいは都に残って天皇に味方したものもあったのであろう。
郷土の丹後勢が誰の旗下に属し、どこの戦場でどのように戦ったものか分らないが、守護や地頭にかりたてられ戦場から戦場へ引きまわされながら、その結果は尊氏に置き去りにされた我々の祖先はかわいそうである。
九州にのがれた、尊氏は菊池武敏等九州の勤王の軍を破り、水陸両軍をひきいて都に攻め上ってきた。
これを迎え撃つため出陣した楠木正成は湊川で戦死し、新田義貞もまた退却、尊氏は都に入り後醍醐天皇は逃れて吉野にうつりこれを南朝という。これに対し尊氏のたてた天皇を北朝といっている。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


戻る