岩滝の歴史 −23−

鎌倉時代G−南北朝時代の岩滝−


丹波の国、何鹿(いかるが)郡の上杉村(綾部市東八田地区)は足利尊氏の母方の里である。このことからも当時の丹後は足利氏の勢力下にあったことが想像できる。
足利氏は北条氏の下臣である。
さきに足利泰氏が丹後の守護となって赴任している
源義国−−義康−−義兼−−義氏−−泰氏−−頼氏−−家時−−貞氏−−尊氏−−義詮−−義満
上記の足利氏系図でもわかるように丹後は足利氏と深いかつながりがある。
ところが、足利氏の領地である岩滝に楠木の敗残兵が逃げてきているのである。
「称明寺縁起」

明徳年間(1390〜1393)千早城落城の後、楠木の遺族此国に隠遁せる者数名あり。当寺(称明寺)の遠祖も蓋(けだ)し其1人にして、本村(岩滝)小字日野内に、主従蟄居(ちっきょ)せるものなりと伝う。然れども、其主家、即ち当寺に蔵せし系図は、数回の火災に灰燼(かいじん)に帰し、従家、即ち、楠田市兵衛方に蔵せしものは放蕩(ほうとう)者のために他へ持出され、後不明となり、今日にては事実を徴すべき資料を得ず。頗(すこぶ)る遺憾とする所なり。

併し、日野内に隠れし当年を記念せん為、住職の姓を日野と称し、当寺の檀徒は、楠木氏の遺族を奉じて此処に隠れ、難苦を倶にせしことを永く後世に伝えんが為に楠田氏と名のりしならんと、古老は語れり。爾来(じらい)、200年主家は名のみの僧となり、従者は農業に従事して僅かに生計を営みしが・・・。

南朝の遺族がどうして足利−北条の勢力範囲である岩滝にわざわざ逃げて来たのか不思議である。「灯台下暗し「という諺があるが、思うに敵の裏をかいたものであろうか。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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