岩滝の教育 40
社会教育(8)
公民館(6)


岩滝分館(公会堂)−3−
時代の変遷で狂言は明治20年頃を限りとして自然消滅となったが、舞台東寄りの化粧部屋が若社中の集会所として使用され、若社中が朋友会と改名し、観擁会、青年会、青年団と変っても依然として若者の集会所として続いていた。
狂言の自然消滅と共に、不用になった狂言場(舞台)は各部落とも皆解体され、売却されて姿を消してしまったのに岩滝のみが公会堂と改称され、相当役に立っているについては、つぎの理由によるものであることをつけ加えておきたい。
藩政時代には村々に庄屋が任命され、一村を支配していたが、廃藩後村々に総代所が設置され、所長を総代(区長)といった。
総代所には月番と称する12人の評議員があり、部落を立町、浜町、藪後町、東町に分け、20人を選出し、これが総代所の議員として村政に参与した。そうして総代に当選した者は自宅を総代所に充当する慣例であったから公私がはっきりせず、不便不都合を痛感した。150円の謝絶金を出して之を断った糸井弥兵衛の如きもあって、総代所改革となり、明治30年に月番制を改め四町選出の町総代をもって之に替え、総代所は舞台の化粧室を改造して之に当てた。こうして何時の間にか所有権も岩滝区に移り、修繕、改造等の費用も区費から出され、誰いうともなく公会堂と呼ばれるようになった。一つには岩滝の中央で地の利を得、利用価値の高いことも幸いしているのであろが、一方公民館の岩滝分館としても尚利用されていた。


前へ 目次 次へ