岩滝の教育 49
社会教育(17)
青年団 −4−


2.岩滝青年団(2)
 岩滝の誇りである時代行列の器具は朋友社が保管し年一回、必ず虫干しを行った。鳥毛とか、大羽車(おおはげま)等鳥毛のついた物は西光寺本堂の高天井に吊し、弓、鉄砲、その他は上八枚(かみはちまい)といった旧家、豪家の土蔵にあずけてあったから、之等を台帳と対照して点検し、樟脳を入れて廻ることは年中行事の主なものであり、之には新旧役員が同行した。
 次に朋友社は岩滝山林の管理警戒権といったものを附与されていたから年中交代で、二人宛山番に行かねばならなかった。区有林、朋友社の所有山林は殆んど中郡森本村(大宮町)との境界で、越境も少くなかった。
 山番は、山、谷を一巡して権現森から中郡境を大内峠、重右衛門茶屋に来て竹輪の吸物を作らせて弁当を開いたり、天橋を踏まえて午睡して来たなどゝ語り合うのであった。
 越境や盗伐を捕えても、鎌やサス(棒)を取り上げる程度で余り厳しい追及はせぬ例だったが、朋友社の山番というだけで大変恐れられていた。
 若社中から朋友社へ伝統的に引き継がれた時代行列は大祭りと称し、岩滝の一万両祭りとして名物となっていたが、要するに祭典の余興であった。氏神の祭典は男山八幡神社を氏神とした時代は八月十五日、明治七年分離して板列神社となってからは、八月十一日であった。約五百人を動員する大がかりなもので、出石藩から譲り受けた当座は三年毎に挙行していたが、五年目となり、十年目となった。
練習も半ヶ月以上を要するので朋友社は盆の会議から引き続き諸役の割り振り、打合せ、練習、予行演習とつづいた。中、上は行列に加わらず余興の囃子方、手踊、四、五種という程度であった。
 此の稽古は十日がかりで、適当な空家を借り、踊りの師匠、笛太鼓、三味線の専門家を雇ってきて日夜練習を続け費用は皆自己負担であった。
 担(に)ない屋台の中に各人歩きながら太鼓、笛、三味線、すり金(がね)で天神囃子外三、四種を合奏するのであったが、行列の最後に加わり、処々で手踊りを公開し、夜は各町を廻って囃子と踊りを繰り返した。皆縮緬友禅の襦袢二枚三枚を重ねて花の如く佳麗であった。


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