岩滝の教育 50
社会教育(18)
青年団 −5−


2.岩滝青年団(3)
 盆おどりも朋友会の受け持ちで、旧7月14、15、16の三晩、広小路の中央に附近の家々の納涼台十脚ばかりを借り集め、之を三段に積み重ね、音頭出しを中心に、三味線、笛、太鼓と10人位が陣取る例であり、周囲には丸提灯を吊し、又、広小路の周囲にも笹竹を立て、縄を結(ゆ)いめぐらし紅提灯を一間毎に吊したものであった。踊り場にもっとも近い舞台の北隣小室清六(現在坂根歯科)家が朋友社の臨時事務所となり、音頭取りや囃子方の夜食、衣食、又、交互の休憩がここで行われた。
 会計は朋友社が負担したが、踊りを見に来た有力者連が分相応に酒一升とか、三升、五升とか寄附を申し出た。するとその寄附札が貼り出されるのであった。毎年それで踊りの経費が殆んどまかなえた。
 明治25年に弓木貞風社は寄附金を集めて踊り櫓(やぐら)を急造したので盆踊りの賑いは未曽有のものであった。従って岩滝の踊り場は見るも気の毒な程閑散となった。
 それに刺激された朋友社や旦那衆は弓木に負けて引き下がるなど岩滝の面目にかかわるというので、朋友社を激励したが、誰からともなしに数十円の金が朋友社に届けられた。そうでなくても熱狂気分であった朋友社は敢然として起ち上り、岩滝区内の大工二十余人を、有無を言わさず総動員し、全くの昼夜兼行5日間朋友社の幹部付き切りで監督し、接待をも惜しまなかったから全く戦争さながらの騒ぎであった。この非常手段が効を奏し、弓木のそれに倍する立派な櫓が建設された。
 当時の朋友社は今日では想像もつかぬほどの威力をもっていたのである。こうして櫓の竣工式という名目で、裏盆(地蔵盆)23日、24日と二晩に亘り底ぬけに踊り抜いたのであった。さすがに広い広小路が二重、三重の踊りの輪となった。


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