岩滝の歴史 −33−

室町・戦国時代(前編)I 

−武田一族と丹後−


延徳元年(1489)将軍義尚が死に、同2年足利義稙が十代将軍となった。しかし、政治上の実権は細川政元(勝元の子)がにぎっていた。
明応2年(1492)将軍義稙は越中の国に追われ、細川政元は翌3年、足利義澄をたてて十一代将軍とした。
政元は、明応7年5月、若州武田一族をそそのかせて丹後を犯させた。一色義直は再び普甲峠に武田勢と対陣したが、軍破れて討死し、妻も自害してしまった。
勝ちほこった武田勢は与謝郡に攻め入った。急を知った吉原四郎義清は武田勢を迎え討ち、さんざんにうち破って兄義直のかたきをうった。
しかし、義直は討死したのでなく、6年後病死して、加佐郡の竜勝寺(舞鶴市行永)に葬ったのであるという説もある。

こうして、吉原山城(峰山)に拠る吉原四郎義清は、傾きかかった一色党の安危を双肩に荷って目覚しい活躍をしていた。
ところが一方、武田信賢の兄国信は、後柏原天皇の明応10年3月(文亀元年 1501)細川政元、澄元(政元の子)らと計り、将軍義澄を説いて、国信の子へ(信賢の遺子ともいう)大膳太夫元信を従四位若狭守に任じ、更に、丹後の守護をも兼ねさせた。そこで、武田元信は加佐郡に攻めこんで来たが、また吉原四郎のために追いしりぞけられた。
当時の政治は天皇の手を離れて室町幕府にあった。しかしその実権は執事(将軍の後見役)である細川氏が握っていた。地方を治める守護の任免も細川氏の自由であった。まして、朝廷から任命された国司の力はそのおもかげも止めていなかった。だが、その実力者細川もまた地方の豪族である地頭の支持が必要であった。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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