岩滝の歴史 −34−

室町・戦国時代(前編)J 

−田数帳と岩滝−


「丹後国諸荘園郷保総田数帳」を略して「田数帳」といい、伏見天皇正応元年8月(1288)に書かれたものを、後花園天皇の長禄3年5月3日(1459)に三重郷(中郡大宮町)の郷士、国富兵庫助長が写したものである。
正応元年は、北条時宗の子時定が執権であり、鎌倉時代に属している。
長禄3年は、足利義政が将軍で室町時代に属し、この頃の丹後には既に一色氏の所領となっている。
田数帳が最初に書かれた時から、国富兵庫助長がこれを写した時までに171年の歳月を経過している。
国富兵庫は鎌倉時代に書かれたものを基礎にして、当時のものを訂正したものと考えられる。田数帳は成相寺の所蔵であり、明治37年2月内務省告示第十号を以って国宝に指定されているが、一色氏及びその他一族、臣下、豪族などの領地を記したもので、丹後の昔を知ることのできる正確な史料として貴重なもである。
岩滝に関係のある部分をみてみよう。
拝師郷(現宮津市日置から岩滝町男山あたり) 七町四段二百五十六歩内


一町・・・印鎰社(国司の印判を祭っておく社で、国府の所在地であった府中にあることは当然である)
一反百八十歩・・・仏成寺(加佐郡河守(加佐郡大江町)の仏性寺ではなかろうか)
一町二反九十歩・・・延永左京亮(一色氏の重臣延永氏の城があり、守護代として勤めていた)
七段二百十六歩・・・成吉三郎左衛門(大江氏で三重(中郡大宮町)の城主であろう)
二町百八十歩・・・庁次(不明)
三町六段二百七十歩・・・安良八郎(不明)
四段四十歩・・・無下地(荒廃流失その他の理由で地目が変ったため耕作できなくなった土地)

 

稲富保(現岩滝町弓木から宮津市須津) 二十五町九段七十二歩内


一町・・・八幡領(山城石清水八幡の公領か、男山板列八幡の所領かはっきりしない)
四段・・・九世戸(文殊の智恩寺)
一町・・・石川庄内慈光寺(与謝郡野田川町)
二町・・・正観院殿
二十一町五段七十二歩・・・本主(城主稲富氏の所領)

 

その他、岩滝の権力者の所領・寺院の公田が他の郷保にあったことも考えられるが、ここでは省略させていただく。

参考文献 岩滝町誌 昭和45年1月


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